七夕笹飾りについて

七夕笹飾りは7月7日までとなっております。

短冊も書いていただけますので、ぜひご参加ください。

七夕の歴史

七夕は日本に入ってきた当初、貴族の文化であった。

日本の「たなばた」は、元来、中国での行事であった七夕が奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた。

「たなばた」の語源は『古事記』でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀葦原中国平定の1書第1にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。また、『萬葉集』卷10春雜歌2080(「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長」)たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ など七夕に纏わる歌が存在する。

そのほか、牽牛織女の二星がそれぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もある[4]

日本では、雑令によって7月7日が節日と定められ、相撲御覧(相撲節会[5])、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた[6]。その後、平城天皇7月7日に亡くなると、826年天長3年)相撲御覧が別の日に移され[7]、行事は分化して星合と乞巧奠が盛んになった[6]

乞巧奠(きこうでん、きっこうでん、きっこうてん[8]、きぎょうでん)は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い[9]、7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。古くは『荊楚歳時記』に見え、玄宗のときは盛んに行われた。この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた[10]。二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女性が当然身につけておくべき技能であった訳ではない。

明治6年(1873年)1月4日、太政官布告第一号で神武天皇即位日と天長節の両日が祝日として定められると共に、徳川幕府が定めた七夕を含む「五節句」の式日が、次の通り廃止された[11]

一覧に戻る
トップへ戻る